昨年、もっとも世界を震撼させた話題と言えば、やはりなんといっても米国同時多発テロではないでしょうか。
あの映画シーンさながらのワールドトレードセンター崩落は今でも脳裏に焼き付いていて、私達は生涯忘れることはできないものでしょう。今も尚、実行犯の居所はわからず、その米国のアフガニスタン報復攻撃による波及効果で、それまで和平の道を歩んでいた中東情勢も一気に悪化していきそうな気配で、『一体、このままどうなることやら』といった感じなのですが・・
この人類史上で類を見ないもっとも悲惨な出来事が起こった現場に彼女は一番見晴らしのいい高台から見ていたのですね、この惨劇を。
彼女は今ではアメリカを象徴とするシンボル的存在なのですが、実はフランス生まれなのです。
1886年7月4日、アメリカの独立記念としてフランスが送ったこの女神は、米仏両国友好の象徴として建設されました。当時、新天地を目指して、ヨーロッパから新大陸アメリカにおしよせた移民は、ニューヨーク港に到着し、その時にまず真っ先に目に入ったものは、自由の女神、そして希望の島、涙の島、エリス(リバティ)島だったのです。実はこの女神像は当初、スエズ運河入り口に建てるべく構想されていたらしいのですが、資金が集まらずに計画が頓挫してしまったので、仕方がなくほど近いアメリカの海の玄関口であるニューヨーク港内にあるこの島に建設されたのです。
この女神像建設構想の計画者は、"フレデリック・オーギュスト・バルトルディ"という人物で、フランス・アルザス地方ドイツ国境近くColmarという町に生まれたフランスの若手彫刻家だったのです。(1834年8月2日生)
彼はフランスからアメリカに贈る記念像の建設のためにニューヨークを訪れ、自由主義の旗手、法学者、エドワード・ラブライェと友好の象徴として像の構想を練り、そして、アメリカの自由な精神を表現する像を建てようと思い、パリに帰ったバルトルディは"自由は世界を照らす"という構想で、女性が希望の灯をかがげて、古い世界から新しい世界へ、自由の光と流れを示すものと考えたそうです。
自由の女神像建設にあたりバルトルディは、自由を象徴し、かつ、若いアメリカの精神表す具体的なイメージを探し求めました。そして最終的には、ドラクロワの絵画『民衆を率いる自由の女神』と、バルトルディ自身の母親の厳格な表情をあわせもった顔が出来上がったのです。
ニューヨーク湾に立つこの自由の女神像は、新大陸アメリカに到着した人達にとっての自由の真の価値と意味のリマインダーの役を果たすことでした。ニューヨーク市民たちも、自由の女神が単に仏・米の友好関係のシンボルでも、アイデアを芸術的に表現した物でないことに気付きました。自由の女神は、新大陸に着いた移民たちが、未知の土地で新しい人生を切り開いていこうとする前向きのパイオニア精神を象徴し、それは独立戦争で、自らすすんで自由のため、尊い命をささげた兵士達の"精神"であり、生と自由と幸せを追求する、新国家憲法を作り上げた先駆者達の信念でもありました。
今では超大国となったアメリカですが、その源はこの兵士達の精神(フロンティア)が今でもこの国の人々に長らく脈々と受け継がれているからでしょうか。
わたくしがこのアメリカの『ミス・リバティ』誕生秘話を聞いて直感したことは、ジャンヌダルクが火刑にされ、死灰がセーヌ川に流されたままそのまま時が止まっていたのではなく、やはりジャンヌダルクは自分の故郷に戻っていたのだと確信しました。17年間で自由を閉ざした羊飼いの少女の心が故郷へ戻り"生と自由と幸せ"を求め、時を重ねながらやがて大海原を越え世界を照らす自由なる新境地に渡ったのだと、そして真の自由を求める人達も大勢引き連れてね....
|