本当のところ僕自身、今となっては「ジャンヌ・ダルク」という人物について興味が無かったのかもしれない。別に「ジャンヌ・ダルク」オタクでもないし、崇拝してるわけでもない。当然、カトリックなどの宗教なんかも信仰しているわけでもない。

「それじゃあ、なんでそんな無意味で面倒なことするんだ?」と思う人もいると思うんです。本当のところはこの「ジャンヌ・ダルク・ロード」の冒頭でも少し述べさしてただいたように”伝説で人の人生が変わった”こと自体に興味があったんです。

あの世界でも有名な大作家「マーク・トウェイン」という人物に私は心引かれ、その尊敬する大作家が生まれようとした時に出た言葉が「ジャンヌ・ダルクって何だろう?」でした。

その言葉を言った後、「ハックルベリー・フィン」や「トム・ソーヤ」が瞬く間に世界中に広まり、人々のヒーローやアイドルとなっていきました。「・・伝説が人生を変えた・・?なんなんだ、それは。ジャンヌ・ダルクって?」・・自然にそう思いました。

別に僕自身が「大作家になりたい」とか「有名人になりたい、お金持ちになりたい」という願望があるわけじゃないないんですが。(あたりまえでしょ)

マーク・トウェインが作家になって46年後、彼の半生と共に生きてきた「ジャンヌ・ダルク」が彼の手によって小説となりました。「その本を読破することによって、何か彼の思いが伝わるんじゃないか?」そう思い、小説をむさぼり読み、そしてこれまで味わったことのない「不思議な感動」に襲われてしまい、「本だけじゃ彼の本意はわからない実際に行って、自分のこの眼、五感で感じてこないと・・・そしたら、僕も何かが変わるかもしれない」突発的にその時そう思いました。それはなんなのかその時は分からなかったですけど。

とにかくフランスに行く決心をしたんです。

フランスといえば「自由、平等、博愛」の国といわれていますが、実際は社会構造自体、階級意識が大変強く、学歴が尊重されるといいいます。これはわが国、日本とよく似てないでしょうか?そして、この「自由、平等、博愛」を背景に描いたとされるフランスを代表とする絵画が例のドラクロワが描いた「民衆を導く自由の女神」でした。この絵は「革命」を表した絵であるともいわてます。


「群衆を導く自由の女神」=「ジャンヌ・ダルク」

ジャンヌ・ダルクはまさしく「愛国心」の”権化”でした。

そして、ドラクロワが描いた絵画は「革命」でした。

「愛国心からくる革命」が起こり、この国は幾度と無く救われました。
「愛国心・・そんなこと思ったことも、考えた事も無い・・・」自分自身、いつもこの旅を通して感じていました。


この「異端の旅」が終わって、少しであるかもしれないが自分の中で何か革命的なことが内部で起こったように感じました。自分が生まれ育った「国」について勉強したくもなりました。それは”あまりにも自分の生まれ育った国について知らなさ過ぎた”そんな自分がいつも恥ずかしかった。だからいろいろ考えさせられました。


ただそれだけがわかった・・いや、それだけで充分じゃあないか?




マーク・トウェインはユーモラス作家として有名だったが、私生活でもユニークでした。白地のスーツを十数着あつらえ、白のネクタイも百本持っていて、それから、最後の日まで、頭のてっぺんから足の先まで、白ずくめの身なりをしていました。礼服まで白地のを一着持っていたそうです。

マーク・トウェインが生まれた1835年には有名なハレー彗星が姿を見せた。ハレー彗星は76年ごとに姿を見せます。そこで彼は、もう一度ハレー彗星が見えるまでぜひ生きていたいと願っていたそうですが、その願いはちゃんと実現しました。

1910年、彼が死んだ後、ハレー彗星は再び空にきらめいていました。
ちょうど500年前にも同じ光景が”あの羊飼いの少女がいた異国の地”でも見られたんでしょうかね?



彼には彼よりも早くに先立たれた娘がいました。そして彼はその娘の墓にこんな四行の詩句を彫らせたそうです。
「暖かき夏の光よ、やさしくこの墓を照らせ、
暖かき南の風よ、やさしくこの墓を吹け、
さ緑の芝生よ、軽く、軽やかに芝れ、
さらば、いとし我が子よ、さらば、さらば」

マーク・トウェインとジャンヌ・ダルク


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